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そこは、暗い海の底だった。
空と海を照らしていた陽は、とっくに西に去っている。
だから、彼女は電気クラゲを灯りとりに、海の中を進んでいた。一人、魚の尾を使ってすいすいと海中を泳いでいる。
人魚は上半身を鎧で覆い、三叉の槍を手にしていた。彼女は戦士だった。
夜になっても帰らぬ妹の身を案じ、聖域の境界を越えていた。ラーナ海域の陸地の見える一帯まで、もうすぐだ。
海には風がないが、永遠を語るような水の流れがある。海流がある。
それに乗って。向こうから何かが流れてくる。彼女は泳ぐのを止めた。まるで海藻のように、彼女の赤紫の髪がゆらゆら揺れ動いている。
キラキラ美しい無数の光が、こちらに近付いてきた。
それは水の泡だった。
(・・・・・・姉さま・・・・・・)
彼女の心に響いたのは、可愛い妹の声。
「ミネルヴァ!」
消えるようなか細い声に、彼女は恐々として叫んだ。たくさんの輝きが、次々に彼女の周りを包み込んでいく。
(・・・・・・姉さま、・・・・・・人間が、来る・・・・・・)
純白の水の泡は、水晶の欠片の如くきらめき、海中に漂っていた。彼女の差し出した手の平に、頼りなげな泡が一つやってくる。光はしばらく揺らいで弾けた。
彼女は全てを悟った。これは、妹の命の光なのだ。
(・・・・・・みんなを、・・・・・・守って・・・・・・)
名残惜しそうに、水の泡が彼女の周りをニ、三回廻った。そして、一斉に、猛烈な速さで海上に昇リ始めたのだった。妹の名を叫び、必死に引き止める声も、もう届かなかった。
光は闇に吸い込まれるように小さくなっていき、やがて消えた。
(ああ!ミネルヴァ!)
彼女は海を見上げて、心の内で叫んだ。
(痛かっただろう!苦しかっただろう!・・・・・・悲しかっただろう・・・・・・)
人魚は両手で顔を覆った。嗚咽がもれた。両の目から溢れ出した涙は、すぐに海に溶けていってしまったけれども、心の中の深い悲しみは決して流れることはなかった。深い深い憎しみの炎も。
彼女はひとしきり泣くと、槍を再び手にとった。
(・・・・・・決して、許しはしない・・・・・・)
瞳は珊瑚のように真紅に燃えていた。陸地のある方を激しく睨みつけていた。
船は波に任されて、右に左に揺れる。
バスタブに張られた湯に、わずかな波面ができる。
広がる白い湯気。暖かい湯。両足を伸ばして。
冷え切った体が芯から温まるようだ、とアルフォンスは思った。
緊張が少しだけほぐれる。肩まで湯につかり、ゆっくりと大きく息を吐く。頭をバスタブの縁にもたれかけさせ、目をつぶる。
彼は、船に乗っていた知り合いの騎士の優しい心遣いを有り難く思っていた。そして、騎士団を裏切った上、船まで奪ってしまった自分に対する彼の応対を、心から申し訳なく思った。
それは、数刻前の出来事。
どうか、言う通りにして欲しい・・・・・・。
アルフォンスは、かつての仲間に剣を突きつけていた。船に残っていたのは、二人の騎士と、数人の彼らのお供達。それと、船漕ぐ雇われの船員達。
陽が沈み、星が瞬き始めた頃だった。アルフォンスは仲間を引連れ、彼らの船を奪わんと、停泊していた船を襲ったのだった。
顔なじみの騎士は、アルフォンスが生きていた事を驚くと共に、彼の予想外の暴挙を信じられないといったように、大きく目を見開いていた。そして、アルフォンスの上から下まで、ひどく血に汚れた衣服を見て、事態の異常に気付いたのだった。
「・・・・・・ダミエル達は死んだ」
表情険しくアルフォンスが告げると、騎士は冷静に尋ねた。
「アルフォンス殿。貴方が殺したのですか?」
彼は一言も答えずに、剣を出したまま、さらに一歩前に進んだ。
「この船は俺達が頂く。貴方達には、俺達の管理下に入ってもらう。大人しくしていてくれれば、決して悪いようにはしない」
アルフォンスの背後には、武器を構えた忍びの男や赤い鎧を纏った女騎士達がいた。空中にも、ドラゴンや魔獣に乗ったビーストテイマー達がいる。いずれも、精悍な面構えに、戦力の優劣を彼は認めた。
剣を向けられた騎士は、腰に指していた剣を地面に置き、素直に降服した。
船は今、アレーナ島から出航し、夜の海を北に、ラーナ海域を目指して進んでいる。すぐに島を離れれば、この島で起こった事について、人魚達を誤魔化せるかもしれないという目論見もあったが。何よりも、アルフォンス自身が、一刻も早く、この島から離れたかった。
アルフォンスは湯から出て、体を拭いた。濡れた髪を、タオルでごしごしと水気をとばす。軽く、髪を撫でつける。
渡されていた服に袖を通した。
白いシャツに、黒いズボンを履く。厚手の青い上着を着て、ベルトを締める。膝下までの長い皮のブーツを履き、留め金をかける。
剣を腰に差す。
隣りの部屋に続くドアノブを回す。
石鹸の香りは、体にしみついた匂いを忘れさせてくれるだろうか。
部屋には、イナンナが一人、椅子に座っていた。船員から渡された海図を前に、机に向かっていた。
アルフォンスに気付いて顔を上げると、はっとして、彼の格好を見詰めた。しかし、それに関しては何も言わず、向こう側の席を勧めた。
「今、私達がいるのは、この辺だそうです」
茶色く色褪せた海図に人差し指を置き、丸く示す。
「大分、この海図は詳しく描かれていますね。朝には、近くの島に上陸できそうですよ」
「良かった・・・・・・。海上で襲撃されては厄介ですからね・・・・・・」
アルフォンスは傍らのコップの水に口をつけた。海図を手元に引き寄せて、目を通した。
「・・・・・・人魚の聖域は、どこかな・・・・・・。少しでも、近付いているのだろうか・・・・・・」
一人言のように呟くアルフォンスの顔には、どことなく血の気がなかった。声にも、いつもの力が感じられない。それで、イナンナは海図に熱中するアルフォンスに言ったのだった。
「アルフォンス。ここは私に任せて休んでください」
彼女は、プリーストやシウェンから、事の顛末を聞かされていた。
しかし、アルフォンスはすぐに首を振る。
「今は休んでいる暇はありません。何時、人魚がこの船を襲撃しにくるかわからない・・・・・・」
「だからです!」
イナンナが珍しく、厳しい声を出した。
「人魚が襲ってきた時、貴方が疲労で戦えないのでは困る。今の内に、体力を回復しておかなければ」
彼女は口をきっと固く結び、彼を諌めるように見た。
彼は視線を反らし、椅子の背もたれに寄りかかった。しばらく呆然と、海図だけを眺めていた。そして、彼は立ち上がった。
「・・・・・・すみません。少し、休みます」
奥の部屋への扉に歩いて行き、その前で振り返る。
「ありがとう。・・・・・・後をお願いします」
「ええ」
彼は扉を開けて、部屋に続く階段を下りていった。
アルフォンスが船室に消えるのを見届けると、イナンナは一旦甲板に出た。眼前に夜の海が広がっていた。空と海の境も分からぬ、真っ暗な闇が広がっている。
(この海のどこかに人魚の聖域があるはず・・・・・・)
イナンナは遠い祖先を思っていた。数百年前の人と人魚の戦い。この島の覇権をめぐる血で血を洗う戦い。多くの悲しみと憎しみの果てに得たもの。この海に逃げた人魚達。彼女の先祖も、この闇の海を見たのだろうか。
その側に、ドラゴンテイマーとビーストテイマーが訪れた。彼女が二人の存在に気がつくと、ティートが口を開いた。
「アルフォンスが、この島の人間でないことはわかってた・・・・・・」
暗く重い声である。
「でも、ローディスの、・・・・・・しかも、フェーリスの騎士だったのね・・・・・・」
二人の複雑な心境を感じ取ったイナンナは、二人に言う。
「アルフォンスは、もう、フェーリスの騎士ではありません。騎士団を脱団したそうです」
ビーストテーマーとドラゴンテーマーは顔を見合わせた。船室からわずかに漏れる明かりしかないために、その表情はよくわからない。ただ、ティートのついた溜息が聞こえてくる。
「依頼人の事情に立ち入らないのが、この世界のルールなんだけど・・・・・・」
ためらいながらも、ティートがイナンナに聞いた。
「彼はどんな目的で、人魚の聖域を探しているの?」
「・・・・・・残念ながら、私にも知らされていません」
イナンナが答えると、ティートは顔をうつむけた。
「そう・・・・・・」
アルフォンスはベッドの上で横になっていた。仰向けになって、重い体の全てをベッドに預けていた。白くて柔らかいシーツは、何とも心地良かった。乾ききっていない髪の冷たさも、もうどうでも良かった。
闇に包まれた部屋に、オレンジ色のランプの火だけが、ぼんやりと灯っている。揺らめく光が、壁に物の影をつくる。影が空間にゆらゆらと漂っている。
彼は右の腕を顔の前に掲げた。上着の上から茶色の皮のグローブをはめている。この服を着るのは、久し振りだった。
(・・・・・・騎士団を離れた自分が、今、聖炎騎士団の服を着ている・・・・・・)
袖が手の甲に少しはみだして、若干大きいけれども、アルフォンスの体にしっくりと合っている事を、彼もよく感じていた。
血で著しく汚れてしまった服を洗い乾かしている間。アルフォンスは、船に乗っていた騎士から服を借りたのだった。
「私の服で宜しければ・・・・・・」
騎士がそう申し出た時に、アルフォンスは断固として断った。しかし、騎士は、それしか貸せる服は無いと言った。船員の服を借りることもできるが、それでは万が一の時に、戦えないでしょう、と。
アルフォンスは胸にわだかまりを持ちながらも、彼の申し出を受けた。
「オウィスの服よりも、その方が貴方に似合いますよ」
ここに休みに来る前、奥の部屋に閉じ込めた騎士の所に立ち寄った。騎士姿のアルフォンスを見て、騎士は笑って、そう言ったのだった。
(・・・・・・彼はお人好し過ぎる)
アルフォンスは思い出して顔をしかめた。
騎士団を裏切った自分に、そんな優しい言葉など、一切不要だ。
船が大きく揺れ始めた。高波の群に、ぶつかったのだろう。大きく、大きく揺れる。吐き気を催すような気持ち悪さに襲われる。頭の中が、ぐらんぐらんと廻る。
しかし、それに抗うような元気もなかった。このまま暗黒の渦の中へと落ちていくのも良い、と思った。
なぜ、こんな事になってしまったのか?
アルフォンスは分からなかった。人魚を助けたかったのに、結局、助けられなかった。自分の存在が、彼女を追い詰めて、あんな結果を引き起こしてしまった。
彼女の悲しげな最期の表情が、闇に浮かんだ。
これでは、シビュラの言っていた方法と変わりはない。
もう、人魚と戦いになるのは、避けられない。
話し合いで解決すると言っておきながら。
(所詮、俺は・・・・・・)
顔を両手で覆い、唇を噛む。
眠れなかった。幾度となく、寝返りをうつ。それでも、眠れない。体も心も疲れきっているのに、眠れない。悪夢にうなされるように、心が落ち着きを無くしている。漠然とした大きな不安。
向けられた強烈な悪意。どうしようもない憎しみ。耳に残る絶叫。
闇に見えた薄気味悪い笑顔。恨めしそうな視線。卑屈な顔で、こちらをじっと見ている。心がぞっと寒くなる。
ダミエル・・・・・・。
(・・・・・・あいつは自分自身に負けたんだ)
アルフォンスは、ぎゅっとシーツの端を握った。
(俺が殺したのではない)
客観的に見てもそうだ。アルフォンスは、そう、自分に言い聞かせようとする。
しかし、「そうだ」と、割り切れぬ自分がどこかにいた。
考えてはいけないと思いつつも、どうしても頭から離れない。拭っても拭っても、一向に消えない。彼にへばりついて離れることのない、血生臭い、黒い汚れだ。
闇の中に、ひどく不気味なものがうずめいているように感じて、どきりとする。
ランプの灯火が、普段よりも暖かい。
あの時こうしていれば、こんな事にはならなかったのに・・・・・・。
あの時、ダミエルを追わなかったら。人魚を先に見つけたのが、自分ではなくテレマだったら。こんな風に苦しむことはなかった。
一瞬一瞬の選択を誤ったばかりに、こんな悲劇を呼び寄せてしまったのだ。
たった一人で目をつぶっていると、後悔ばかりが押し寄せた。やるせない思いに、胸が締め付けられる。
過去を思っても意味は無いと分かっていても。それらは、もう、起こってしまったことなのだ!でも!
(・・・・・・俺は人魚と戦うのか・・・・・・?)
そんな選択を決して求めてはいなかった。しかし、それが目の前にある現実だ。逃れられない。
(・・・・・・アルフォンス、常に考えろ。生きるということは決断の連続だ・・・・・・)
シビュラの言葉がふと蘇る。
(その選択は、正しい、間違いといったものではなく、ただ、別の未来に続いている・・・・・・)
彼女は現実を直視しながらも、いつも、その遠くを見ていた・・・・・・。
今のアルフォンスには、それが優しい言葉のように感じられた。
アルフォンスは、無理に眠ろうとするのを止めた。
ただ体を横にしているだけで良いのだ。
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