冬将軍
後編
青い海だ。夏の終りの。 消えるような薄い絹糸の白雲に、透き通る青空は、盛りを過ぎた後の物寂しさを感じる。 天に聳える帆柱。はためく帆。ラーヌンクルスの獅子の紋章の上に、見下ろすように、ローディス光焔十字の旗がなびく。 港には大勢の人々。見送りの群れ。故郷オウィス島を離れ、エスペラール海に隔てられた、遠いガリシア大陸へと向かう人々のための。肩を叩きあい声を掛け合い、それぞれの方法で、それぞれの別れを惜しむ。 その喧騒から離れた所。人目をはばかるように、一組の男と女がいる。 白銀の甲冑を纏った、堂々とした年若き騎士と、彼と同じ銀色の髪をした若い女性。その腰まで届く長い髪は、ドレープのかかった紫色のドレスに美しく映える。 騎士は彼女の細い腰を引き寄せて、強く抱いた。彼女の髪をなで、その首元に顔をうずめた。騎士は言った。 「・・・・・・必ず、助け出す。・・・・・・だから・・・・・・」 さらに強く抱き締める。嗚咽がもれる。 出航の準備が完了した、合図の鐘が港に響いた。 女性の体が、騎士の手から離れた。 ・・・・・・それは、悲しい思い出・・・・・・。 ナリスの見る景色は、そこで大きく揺らいだ。再び、視界は暗くなる。 足場の無い暗闇で、ナリスは考える。昔のことを。 (あいつは、ローディスに妹を売った・・・・・・) 八年前。兄は、ローディス教への改宗を受け入れ、不平等な講和条約に調印した。見返りとして、ローディスはラーヌンクルス地方を正式にバトラール家の領地と認め、兄は公爵の地位を与えられたのだ。 しかし条件があった。妹をローディスの貴族に嫁がせること。 妹は愛の無い結婚を強いられ、わずかな従者を伴って、遠い大陸の異郷の地へと旅立った。故郷の島を去り・・・・・・。 (そして、妹は、ローディスに殺された!) 「違う。貴方の大切な妹を殺したのは、・・・・・・貴方よ・・・・・・」 闇が囁いた。 ナリスの前に、再び二人が姿を現す。ナリスはすぐに斧で切り掛かるが、手応えはない。霞みのように。所詮、無駄な抵抗だ。 「何を言う!妹は、ローディスに殺されたのだ!」 ナリスが叫んだ。 「冬の海に崖から突き落とされた。あれは事故ではない。女癖の悪い男だった。妹が邪魔になったのだろう!」 セルヴァンは闇を払うように右手を振る。三人は別の景色に移る。 玉座に、先ほどの若い男が座っている。鎧の上から黒い喪のケープを羽織った彼。険しい表情で、宙を睨んでいる。 彼は報せを待っていた。 兄の死後、騎士は領主を継いだ。そして早速、行動を開始したのだ。全ては秘密裏に。武器を揃え、砦を補強し、食糧を備蓄する。ラーヌンクルスの厳しい冬は、きっと我々に味方する。 挙兵の準備は調った。あとは妹を救出するのみ。信頼の置ける部下をローディスに送り込んだ。 大陸から戻ってきた船は、もう到着しているはずだ。 王座の間の扉が開かれた。急ぎの使者が飛び込んでくる。 使者は、妹の死を告げた。 景色は消え、闇の中。 「冬の、冷たい海に妹は消えた。遺体は見つからなかった」 ナリスは声を荒げた。 「崖から過って滑り落ちただと。バカな!なぜ、あの時期に、わざわざ海に行く必要がある」 「彼女は最期に、故郷を眺めていた。勿論、あそこからは見えなかったけど。少しでも近く、彼女は故郷の側にいたかったのよ」 妖しい光に浮かび上がる、レーテ。 「最期の場所。・・・・・・ここからなら、もしや、故郷に流れ着くこともあるかしら・・・・・・」 「・・・・・・止めろ・・・・・・」 ナリスは押し殺した声をもらす。 「彼女は知っていた。自分を救い出すために、兄が兄弟殺しの罪を犯してしまったこと」 レーテは言う。 「そして、その兄が、自分のためだけに、無謀な戦いに身を投じ、たくさんの人間の命を犠牲にしてしまうことを」 闇に赤い風が吹き寄せる。気味悪く、辺りに蠢く。苦痛に身悶えるが如くに、次々に形を変えていく。血の匂いを撒き散らす。胸に突き刺さる。風に紛れて聞こえる微かで、おびただしい人々の悲鳴。 「彼女は戦いを望んではいなかった。だから、自ら死を選んだ。自分さえいなくなれば、貴方は戦わない」 「嘘だ!でたらめを言うな!」 彼が取り乱す様子が、さも可笑しい事のように、レーテは大声を張り上げて笑った。 「貴方だって、本当は気付いていたでしょう!人質にとった娘を、そう簡単にローディスが殺すはずがない。この国の自由を押さえ込む、格好の切り札だというのに!」 レーテは人差し指で彼を指差す。 「貴方は、気付いてないフリをしてただけ・・・・・・己を守るために」 赤い風が怒涛のように吹き抜けていく。 「丁度いいわ。見せてあげる。彼女の最期を」 「止めろ!」 腹の底から、ナリスがどなる。しかし構うことなく、黒い大きな渦は彼の全てを飲み込む。世界が狂ったように暴れまくる。回転する。ナリスは両腕を振り乱して、必死にもがく。もがく。悶える。 その先に。 薄い灰色の空が広がっていた。どんよりと重苦しい曇り空が。冷たい風が体を突き抜ける。険しい断崖の絶壁。空の色を映した海は黒く、海の果ては白く霞む。 崖の先端には、貴婦人が一人立っている。ローディスの絢爛たるドレスを着ている貴婦人の後ろ姿が。ただ一人、佇んでいる。何も無い、海の彼方を見つめている。 はらはらと粉雪が舞い始めた。 遠くに控えていた、彼女の侍従が名を呼び掛けながら、崖へと歩いていく。もう、そろそろ屋敷に戻りましょう、と。 粉雪が、彼と彼女の間に降る。 懐かしい雪。 ぐらりと、彼女がよろめいた。まるで、北風に押されたかのように。 消える。 頼りなげな彼女の細い体が、宙に投げ出される。徐々に勢いを増していき。険しい海岸の下の。 岩に。 「うああああ!」 男の絶叫が轟いた。 彼は妹の名を叫んだ。 (お前を、お前を助けるためなら!あいつの命など!) 冬の夜。止まない吹雪。眠る兄。毒薬。 走馬灯のように蘇る、彼の兄の最期。 すやすやと寝息をたてる。何も知らずに安心しきって。ベッドで眠り続ける兄。周りに人はいない。チャンスだ。懐の毒の瓶を取り出す。瓶を開ける。口元に押し付ける。色も無く味もない。透明な液体を。静かに流し込む。命の灯を消す液体だ。己の保身のために。妹を売った。大罪を。今こそ、償うがいい! この腰抜けが! 闇に、大きな、無数の笑い声が響き渡る。けたたましく、狂乱じみた、笑い声達は、闇の世界を隅々まで埋め尽くしていく。様々な笑い声。絹を裂くような甲高い少女の笑い声のようでいて、気の触れた男の声のようでもある。そして、世界の全てを嘲るような、冷ややかな笑い声も聞こえる。世界の何もがもが、お笑いじみたもんだ。この世界の喜びも楽しみも、憎しみも悲しみも、全てが、笑いで片がつく。 ナリスの眼前に出現した、巨大な男の顔。虚ろで、無力な、哀れな男の死に顔。そう。ほら、見てみろ!自分の犯した罪の償いを死によって果たし、微笑んでいるようではないか。 (他人の命など惜しくはない。他者の命をも踏みつけよう!) ナリスは両腕を雄雄しく、天にかかげた。 (力無き者には、服従と隷従の運命があるのみ!) 彼は、おぞましく、心地よい笑い声を引き連れて、世界の王となる。 (強大な力を!) 世界は闇になる。暖かい光など、此処にはいらない。目の前には、煙のくすぶる焼かれた街に、おびただしい死体。己の幸せを守るために、誰かを犠牲にする。それが人間だ。 ナリスは血に濡れた斧をもち、血に汚れた甲冑を纏い、戦場を突き進む。忌々しい。憎いローディス人を次から次へと殺していく。 彼が作り上げた、名も知らぬ死体の山。得意げにそれを眺めて、その中に、妹の姿を見出す。狼狽して駆け寄り、懸命に死体を掻き分けて、涙に濡れた彼女の死体を抱きしめる。彼は叫喚する。 戦え。戦え。死ぬまで、戦え。この身を血に染め、他者の肉に貪りつく。悲鳴、うめき声、人殺しの大罪をまとい、地獄に堕ちる。全てはお前を守るためだ。 お前を守るためなら、オウガともなろう! 「彼女の体も。魂さえも、故郷に帰ることはできない」 膝をつき崩れ落ちたナリスの脇に、レーテが立っている。 闇はもうなかった。三人は玉座の間にいた。 「神は許さない。自ら命を絶った人間を。神は弱き人間を決してお救いにならない。神の創った法と秩序の名の元に、彼女の魂は天に召されずに永遠に彷徨い続ける」 傷を負っていたはずの彼女の体には、血の跡も、衣服の乱れすらない。玉座の間に、ほんのりと明かりが灯っている。二人が訪れる前と何も変わってはいない。 「闇に聞こえたのは彼女の声。苦しみ続ける彼女の声。神とは無慈悲で無情な存在・・・・・・」 広い玉座の間は、しんとしている。ただ、外は暗く、雪が嵐となって吹き荒ぶ。 レーテの声が響く。 「彼女は今も海を漂っている。・・・・・・ぷかぷか、ぷかぷか・・・・・・。当て所も無く彷徨う・・・・・・儚い、人魚のように・・・・・・」 レーテはその場にしゃがんで、物言わぬナリスを労わった。 「・・・・・・ごめんなさい。貴方を苦しめてしまって。・・・・・・・そう、彼女が自ら命を絶ったなんて。本当は、幻だったのかもしれないわ。証拠があるわけではないもの・・・・・・」 両腕で頭を抱え込み、うずくまるナリスの背中に、そっと手を置く。 「だって、彼女は何一つ残していかなかったのですもの・・・・・・」 彼の耳元に顔を近づけて、囁く。 「でもね、これだけは本当のこと。彼女の魂が、今も、故郷を想いながら嘆き続けているということ」 ナリスは顔を上げなかった。レーテはつぶやく。 「弱ければ、愛しい人すら守れないわね・・・・・・」 レーテは立ち上がり、熱く声を上げた。 「貴方は手にしなくてはならない。力を。もっと、力を!他に屈しることなく、大切なものを守り抜く、強大な力を!」 将軍は身じろぎもしない。 「愛しい人を奪った、・・・・・・貴方の幸せの全てを奪った、ローディスに復讐を!不条理なこの世界の全てを。そして、非情なる神に!」 セルヴァンは言った。 「私達が、貴殿のお力になりましょう。貴方の望みは我々の望みと同じ」 「そうよ。だから、忘れましょう。人の心を弱くする、悲しみなんて。貴方に必要なのは、唯一、憎しみだけ」 レーテは慈しみ深い笑みを浮かべて語り掛けた。 「私はレーテ。『忘れ川』。・・・・・・人々の癒し手・・・・・・」 彼女はナリスのうつむいた体をゆっくりと起こした。 「忘却は優しさ。全てを忘れさせてあげる・・・・・・」 レーテの右手がナリスの両目を覆う。その手は氷のように冷たかった。しかし、彼には、それが相応しいように感じられた。 「私達の手をとりなさい・・・・・・」 ナリスの体が倒れた。 彼の側に、二人。 「・・・・・・運命の輪は回り始めた。しかし未だ、時は満ちていない」 「また、お会いましょう。ナリス様・・・・・・」 ふと、男は目を覚ました。自分を呼ぶ声がしたような気がする。 それは愛しくも、悲しい声。 (風か・・・・・・) ラーヌンクルスは今日も雪。特に、今宵は激しい吹雪だ。 玉座に座る男は大きな吐息をつき、背もたれに、どしりともたれかかった。 どうしてか。体が著しく重い。気分が悪い。酷く疲れている。体の重みに身を任せて、彼は再び、目をつぶる。 「・・・・・・叔父さま・・・・・・」 いや、違う。確かに、声が。 「叔父さま。こんな所で眠ってしまっては、風邪を引かれますわ」 側の人の気配に気付く。玉座に寄り添うように、一人の少女が立っている。 華奢な体に紫色のドレスを装う。さらさらと揺れる、灰がかった銀色の長い髪。バラの花のように、わずかに赤みを帯びた頬に、深緑色の目を細めて微笑んでいる。 可憐な十三歳の少女。 年をおうごとに、似てくるものだ、と彼は思う。彼が愛した妹に。 「・・・・・・マリーシア・・・・・・」 彼は力無く、つぶやいた。 「もう夜も更けましたわ。お部屋でお休みになられて」 澄んだ鐘の音のように、優しさに満ちた彼女の声がする。 「叔父さま。どうかなさいましたの?」 彼女は心配そうに、虚ろな彼の顔を覗き込んだ。 彼の目から、一筋の涙が零れ落ちていた。 目頭がどうにも熱い。この胸の奥から込み上げてくる悲しみは何だろう? 「う、ああ・・・・・・」 彼は苦しそうに、額に手をあてる。 何か、大切なことを忘れているような気がする。マリーシアに関する、重大な何かを・・・・・・。 この胸に宿っていた、深い深い悲しみを。 「・・・・・・お前を、幸せにしてやりたかった・・・・・・」 不意に、彼の口から言葉がもれる。 「なあに、叔父さま?声が小さいわ」 少女が不思議そうに尋ね、彼は再び目を閉じる。 思い出せない。思い出したくない。 思い出したくないなら。思い出さなければいい・・・・・・。 「さあ、お部屋へ」 少女の白く細い指が、彼の無骨な手を握る。 ああ、と彼は促されるままに、玉座から立ち上がった。おぼろげな意識の中、少女に導かれながら、たどたどしく彼は歩いていく。 石畳の上に落ちていた、一本の黒い鳥の羽根。 これは? 未だ覚めきれぬ叔父の姿を見ながら、少女は言った。 「叔父さま。きっと、夢をみていらしたのよ」 少女は優しく微笑んだ。 |
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